成長に必要なのは謙虚なる増長?

増長する猫
楽器や歌を練習していると、いろんなタイミングで「できていると思っていたものが実はできていなかった」というフェイズがあらわれ、またそれは、成長に欠かせないものであったりします。

たとえば、お得意のフレーズをメトロノームにあわせて弾いてみたら、アレ?とか、いつも歌っているやつを、鍵盤で弾いて音程確認してみたらレレレ?とか、最高の演奏をした(はずの)ライヴのライン録りを聴き終わったら樹海に足が向いていた、とか。

ここでショックを受けることにより、ワガの傾向であったり、ぱっとやってみてでは分からないフレーズの難易度であったり、おのが性癖だったり妄想だったり変態性だったりに気づき、良い部分も悪い部分も、自分のなかで単なるメルヘンであったものが、メトロノームや鍵盤でいわば「量子化」されて自分のなかに再格納されるわけであります。

で、思ったのであります。

これには、まず「できている」という、いわば「根拠のない自信」が、非常に重要な出発点ではなかろうか、と。
いわば勝手なる増長。オーギュメントウィザウトコーズ、ちうやつですな。

この無根の自信は、もちろん放っておくとただの誇大妄想に急成長していったり、そこまでいかずとも大事なところでコケたり、なにより人の成長を阻むとても危険なモノになるのですが、逆説的に、コレなくして「だが、できていない」に辿り着くことができないのではないか?と。

それに、メトロノームや鍵盤といった「ものさし」で相対化・量子化されてはいないものの、そこにはその人なりの、なんらかの「手応え」があり「できている」あるいは「もしかしたらオレはイケるんやないやろかひょっとして」みたいなものを生じさせているので、まったくの無根ではなく、そういった「インナー根拠メルヘン」は存在するわけで、そこに到達していることが、相応のものさしを使った検証時の落差を増大させ「実はできていない」という楔のエッジを鋭くするのではないかというような事を思ったのです。

成長にはこの落差が欠かせないと個人的に思うのであります。優れた指導者はこの落差への気付きをうまく誘導してくれます。
ただガミガミ言われても、じぶんで腑に落ちないと、こればっかりはなんともならない類のものなのが厄介なのです。腑に落ちたときしか成長しませんし。

この「成長のための増長」がないままですと、せーので練習始めても「あーダメダメ、ダメだ。どうして上手くならないんだろう」「アカン、1音たりともきっちり弾けてない…」みたいな、どうやっても、いくら懸命に練習してもスパイラルの方向が下向きになる傾向があり、練習してヘタになろうはずはないのですが、自分のなかになにも落ちてこない、非常に実りの少ない時間をすごしてしまうのです。

この夏のわたくしのように。

「鶏が先か、卵が先か」の循環参照のような「自信」と「研鑽」だとは思うのですが、こればかりは、まず「自らを信じる」自信があり、そこに向上心があるから稽古する、で、パフォーマンスが上がることにより、真の自信がついてくる、というようにならないと、そういったサイクルを見つめながらやらないと、火の車に縛り付けられて煉獄送りにされているようなキモチで諸々と向き合わねばならなくなり、おのれも周りも不幸だし燃費悪いしでもうホントに、それなら気晴らしに映画でも観たりカラオケでぴんから兄弟歌ったりしたほうがよっぽどヘルシーに過ごせると思うのです。

いわゆる「スランプ」とかそういうものなのでしょう。だから、自信を失って俯いてしまった時用のなにか、カオを上げさせてくれるなにかを自分に用意しておかないとイケナイなと思います。

ただ、それにすがりつかずに、そのたびに取り戻した自信を向上心の炎にくべていくハートのサイクルはしっかり作り上げておかないと、それこそどうしようもない無限回廊を歩いているうちに人生終わっちまうので、いつも「より良い自分」あるいは、そこから自分を削って「よりよいパフォーマンスを生み出す」というアクションにフォーカスし続けていたいものです。

人それをアメムチなどと言うけれど、これまたアメムチなのであってムチアメだと「学習性無力感」の獲得にイッキに車線変更ですからね。

まず、「それでも自分を信じろ」と。

2014年という年に。

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