来週はサロン・コンサート〜17世紀イギリスの古い音楽〜茨城県神栖市へエンヤコラ!

Kalmia Salon Concert 2013-11-24 Flyer
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まだ大島の復旧・復興のことが気になって目が泳いでいるベビスネですがみなさん如何お過ごしでしょうか。

さて、11/11のコーフンも冷めやらぬまま(ちにみに1111を2進数だとすると、10進数で「15」で、16進数だと「F」なのね。4文字でFってなんだか因果でステキ。だけどどうでもいい話)、11/23にわたくし、茨城県神栖市でのステージ(BabySnakeではなく本名で)を控えております。

詳細はこちら→カルミア・サロン・コンサート (リコーダー奏者 辺保陽一さんのブログ)

しばしばご一緒させていただいている、リコーダー辺保陽一さん、チェンバロ加久間朋子さんの演奏会に、賛助出演させていただきます。演目は16世紀から17世紀のイギリスの音楽です。

これらの音楽が生まれた時代は、テューダー朝からステュアート朝にわたります。ドイツで三十年戦争が戦われていた時期を含みます。

ヘンリー8世(在位1509-1547)〜エリザベス1世(在位1558-1603)までの、(それなりに)強力な絶対王政の世の中から、諸侯の弱体化により、ジェントリという新興勢力が生まれ、やがて革命の嵐がやってきます。英国は、大きくトーリー党(騎士党)とウィッグ党(円頂党)というふたつの勢力に分かれ、幾度かにわたる大きな内戦の時代になります。「清教徒革命」と、宗教革命のような呼称もありますが、チャールズ1世(在位1625-1649)の「王権神授説(オリジナルはジェームズ1世)」からジョン・ロックの「統治二論」の時代へ、いえ、社会全体のパワーバランスの推移がそれまでの枠組みをぶっ壊し、焼き払おうと、ヒヤシンスの発芽のように牙となり、メキメキと音を立てていた時代です。共和国となり、護国卿オリヴァー・クロムウェル(1599-1658)は隣国アイルランドへ攻め込むも、やがて社会の歪みはブリテン島内で爆発。王政復古名誉革命を経て、現在に至る立憲君主制へと、その統治スタイルを変化させました。

「ヘンリー8世によるローマ・カトリック教会から離脱〜英国国教会(教皇庁支配からの離脱のための教会、教義はカトリック的:トマス・モア処刑!)」
「メアリー1世(ブラッディ・メアリー)による清教徒弾圧(ローマ・カトリックに復帰)」
「絶対王政(エリザベス1世の統治+国教会の強化=カトリック・国教会・清教徒混在期)」
「清教徒と国教会の闘争〜絶対王政の衰弱」
「チャールズ1世処刑→共和制イングランド(結果的にはクロムウェル朝:プロテスタント化)」
「王政復古→名誉革命〜立憲君主制(ふたたび国教会が強く)」

もちろん、上記のような流れ(まるでフランス革命の前哨戦ですね)のなかで、人々の心の拠り所であるキリスト教もかわります。ゆえに、教会や王権(宮廷)という宗教勢力・権力機構を主なクライアントとする音楽家のなかには、祖国を追われ客死するものや、オランダへ逃げてまた戻って活躍するもの、嵐がすぎさるまで地下室(図書館)で牙を磨き続けるもの、それぞれ、たくさんの人々が「時代」という波に翻弄されたときでもあります。このあたりは、日本の安土・桃山時代の茶人のようでもありますね。

ちなみに、前述のジョン・ロックも、思想家ですが、音楽家たちと同様に一時(おそらく宗教上は逆の理由で!)オランダに逃げていたというのも面白い事実です。当時はドーヴァー海峡を越えてフランスよりも、強力な港を持つアムステルダムのほうが、海洋国家の英国人は親しかったのでしょうか。メルカトール図法で見るより実際は近いのかも知れません。なによりハープスブルク家(神聖ローマ帝国)〜スペインの支配から抜けようとする八十年戦争の時期。同じようにカトリックとプロテスタントの対立するネーデルラントには、何かがあったのでしょうね。

そんな中、花開いたのは、まさに絢爛たる音楽。特にテューダー朝の時代には、チェンバロでの演奏を主とする鍵盤音楽が、技術的・理論的・芸術的に爛熟期を迎え、圧倒的な質・量で英国を、そしてヨーロッパを席巻しました。

が、栄華を誇ったブリティッシュミュージックではあったものの、やがて若くしてヘンリー・パーセルという巨星を失います。その頃から英国は、いち早く工業化・産業革命をはたしたその富で、音楽の生産地ではなく一大「消費地」へとその有り様を変えていくのです。まるでビールを作るのをやめ、大陸のワインを楽しむかのように。

今回は、そんな激動時代のイギリスの宮廷音楽を、辺保・加久間両氏による演奏と、それぞれの楽曲にまつわる、まさに枚挙にいとまのないエピソードを交えてお楽しみいただきます。

刮目すべき使用楽器について、辺保さんがブログに書かれています→ 神栖でのコンサートへ向けて

このチェンバロ(イングリッシュ・ベントサイド・スピネット)も、リコーダー(ガナッシ:ルネサンス・リコーダー)も、まぁ普通には目に、耳にすることができないレアかつ、そのめくるめく音色が素晴らしい楽器たちです。

そして、私は「王侯たちがワインを楽しもうとも、オレたちゃエール(ビール)が大好きさ!」とばかりに、この時代からなんと、18世紀以降まで生き残ってゆく、英国版ダンス・ミュージックを担当します。そう、一転ひるがえり「庶民の音楽」です。

まさに、宮廷に乱入する吟遊詩人のように、ギターをかき鳴らし、なんと、歌うかもしれません(笑)

カーディフ、1996年夏

こんな感じ。写真は1996年の夏にウェールズのカーディフを訪れたときのもの。

その名も「ジョン・プレイフォオード(1623-1686)のイングリッシュ・ダンシング・マスター」という書物に記された、おびただしい数のダンス・ミュージックからチョイスし、メドレー形式で演奏します。

この本は、数々のダンス・ナンバー(古くから伝わる民謡や童謡、流行歌をふくむ)のメロディと、それに合わせて踊るためのステップのみが記載されたダンス雑誌のようなものです。著者のジョン・プレイフォオードさんというのは音楽家ではなく音楽出版をなりわいにしていた人で、彼が「最近ちまたで流行りのカントリーダンス」の105のステップとメロディを収集し、1651年に出版しました。

エリザベス女王の崩御が1603年なので、それから半世紀ちかくも英国人たちは、そのあいだに内戦(清教徒革命)が起こって国王が処刑されようとも、アイザック・ニュートンが万有引力の法則を導き出したりしても、おかまいなしに踊り狂っていたわけです。、そしてそれからもこれらの音楽とダンスの時代は続きました。なんと、この「ダンシング・マスター」、プレイフォオード自身の死語もガンガン版を重ね出版され、1728年に最後の版が出たころには収録曲が2,000を超えていたといいます。

そうなのです。実はこの時期、ダンスにも改革がありました。中世〜ルネサンスの時代、特に100年戦争の前までは、王権がノルマンディの支配権を兼任していたり、上流階級のなかでは「文化」とは大陸的、すなわちフランスっぽいもので、ダンスはすべて、おフランス、イタリアのもの。宮廷ではフランス語が公用語だったりしました。前述の音楽とは前後しますが、まさにビール(国産)ではなくワイン(舶来)のようにダンスや文化を好んでいたのです。

(なので、生き物の豚は「Pig(英語由来)」で食い物の豚は「Poke(仏語由来)」だったり、牛は「Cow」や「Ox」(英語由来)と食べる時は「Beef(仏語由来)」だったり、言葉がそのもそもちがったり。ちなみに十字軍で有名なリチャード獅子心王(在位1189- 1199)はノルマンディ生まれ(生まれはイングランドだったそうです)で、イギリス国王なのに英語喋れなかったらしいです)

が、エリザベス1世の時代になり、主に農村で踊られていたダンスが、カントリーダンスとして王宮に乗り込み、みるみるフランス、イタリアのダンスを駆逐していくのです。世はまだルネサンスなれど、こういうの、まさにバロックの時代の夜明けです。ビールえらい!(笑)そして、エリザベス1世自身も大のダンス好き(ABBAですな)で、映画でも踊りながらブン投げられていましたが、ヴォルタというダンスが得意だったそうです。なんとなく先ほど「王宮を飛び出して庶民の酒場へ」みたいに書きましたが、その逆がおきていたのですね。

そして、そのダンスの隆盛にひと役買ったのが、旅回りのダンス・マスター(ダンシング・マスター)で、彼らがこのプレイフォードの楽譜・ステップ集を持って英国じゅうをダンスの渦に巻き込んだのか、それとも、プレイフォードさんがマスター達から聴きとって編纂したのであるのか、僕の知識の範囲では明確なことはわかりませんが、いずれも双方からのフィードバックがあったのでしょうね。

一説には、カントリーダンスの起源には、16世紀にはいってゲール語(ケルト語)を禁止され、踊りも禁止されたアイルランドの人々が、踊っているのがバレないようにステップを中心にした踊りを開発し、それをダンス・マスターたちが広めたのだとも。

このカントリーダンス、はたしてどんなダンスなのかというと、イメージとしては列に並んだり、輪になって踊る「フォークダンス」のような感じのものが主流で(すこし時代が下りますが)ジェーン・オースティンの小説『高慢と偏見(Pride and Prejudice)』やその映画化されたもののなかで観られる舞踏会のような感じです。

お客さんには、実際にコンサート会場で踊っていただいてもいいなぁとか思うのですが、そういうわけにも行かないですね(笑)

ダンス・ミュージックとはいえ、とにかくやっぱり英国風味。タイトルなんか見ても「物乞いの少年」とか「おい誰か港でプカプカしてるぜ」とか、明るい曲調に対してひどいタイトルがついている、シニカルで冷笑的なものも多数(笑)。そういったものも紹介しながらのステージになります。

で、わたくしの楽器は、ナイロン弦アコースティックでの演奏になります。
みかん色ギターと衣装

非常にオーセンティックなつくりのチェンバロ、リコーダーにはさまれ、エレアコ…(もちろん、アンプを使わずに生音で使用しますが)なんだか、どこへ行ってもマガイもの扱いの僕らしくて逆に誇らしいくらいですが。

も、もちろん、サウンド、パフォーマンスで魅せたいと思っております、よ…(;´Д`)。

ぜひぜひ、皆様ご来場いただきたいと思います!

そして後日談。カントリーダンスは、「コントル・ダンス」と名を変えてフランスへわたり、長く愛されます。ビールえらい!

またその華やかな世界の裏側で、宗教革命で追われた清教徒たちはメイフラワー号でアメリカへ渡り(ピルグリム・ファーザーズ:1620年にニュー・イングランドへの入植がはじまる。)「コントラ・ダンス」と名を変えて、今もって愛されているものであります。

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