それは分割コントロールできるのか?

自律神経失調症、であるらしい。

交感神経優位、というのであって、いわゆる身体の中でオートメーションされているものに、意識が介入しまくってアレやコレやと過剰にコントロールしているような様子。

たとえれば、身体というものに対してデートDVerのような振る舞いを、脳が続けているといえばいいのであろうか。

結果、身体的な不具合が出る。

かといって、それはマインドセットが土台となっているのでなかなか一朝一夕でバツっと切り替えられるわけでもないところを、頑張って「リラックス、リラックス」などとやっていると「リラックスせねば!(ギラリ)」とか、まったく逆効果になってしまいがちで。

話は変わるが、私は実は地味に「今生での解脱(げだつ)」を、低めの温度で追っており、ヴィパッサナー瞑想に取り組んでいる。

ヴィパッサナー瞑想は、本来の仏教の基幹となる修行で、アメリカ人が商品化してマインドフルネスという名前をつけたが、本来は解脱のための修行法である。

ものすごく大雑把に説明すると、すべての事象を指差し確認する、というようなことが実際のアクションになるのだが、たとえば自分の呼吸を観察して、それを意識的にラベリングする、というようなことになる。

ここが肝要で、私なぞは呼吸を観察するあまり、「吸う」「吐く」というのをもう、身体が勝手にやってくれなくなり、吸おうとしたり、吐こうとしたり意識しなければ行えない、放っておくと息がとまり、非常に苦しい、というくらいマインドが支配的になったりするのだ。難儀。

で、この観察であるが、呼吸や、呼吸にともなう腹部の膨張・収縮などを観察して、それを確認(ふくらみ・しぼみなどとラベリング)するのだが、割と微弱な身体感覚なので、うっかりすると寝て意識がはずれてぼんやり考え事(妄想)に向かってしまうのがつらい。それが修行ではあるのだが。

ある日(夜かもしれない)、さて瞑想でもするかと思った私は、開始早々に割と強めの尿意にさいなまれはじめた。そして「コレはいけるんとちゃうやろか」と大阪弁で考えて、「大阪弁で考えた」とラベリングしながら、観察する対象を「尿意」にした。とにかくこれはどのような尿意であるのか、どのような気持ちなのか、この感覚ははたして「痛い」のか「かゆい」のかそれとも他のいったい何なのか、というようなことを、考えるのではなく感覚ひとつひとつを言語化というか、単一のワードにして瞑想を続けた。

が、通常ならやり過ごせるであろう尿意が、瞑想を通じてじっくり観察することによりとてつもなく増大し、このままでは私の人生にK-Pg境界を発生しうるかもしれない恐怖の体内現象のようになってしまい、10分もたたずに瞑想を中断する羽目になってしまった。

ここでこの話が冒頭の話題に戻る。

かように、こと「出す」ことに関して立ち向かうには、我々の交感神経系、つまり制御体系・意識・理性・社会通念などは、悲しいほど脆弱あるいは無力であるということではないかと。

では、むしろ挑んでみようではないかと。

それは「大便の排出を途中でコントロールする(とめる)」つまり、脱糞をみずからの意思で中断して個室から退出する、というこころみである。

もちろん、勝算は未知数である。大体において検尿などのときにもその「中断」というアクションがとんでもなく苦痛であることは自明である。さらに大便コントロールなど、途方も無い修行に感じられる。

どうせ「リラックスしよう」などという、意識で意識を変える態度がそもそもナンセンスだ、というのであれば、大きな「敗北」という事件のまえに跪き、しかるのち仰臥してリアライズすることによってしか私は変わることができないのではないか、と思うのである。

そして今日は挑戦3日目である。

いまだ私はコントロール側の勝利を味わっていない。

私が感じたのは「あああああああ」ということだけである。

だが、挑戦を続けたい。

良い結果が報告できればこちらに掲載したいと思う。

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